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【知者会議】
新しい見る者たちが語る「既知、未知、不可知」の致命的な違いとは?
既知を過度に操作すると
【Episode 3】

 

知者会議の第3回となります、 制作者の陽一です。

今回は、知の道を歩む実践者が知っておかなければならない 既知、未知、不可知についての決定的な違いです。


これは偉大な知を持ちながらも破滅へと向かった「古い見る者たち」の過ちを徹底的に検証して、新しい見る者たちは一つの結論に到達します。
「未知」と「不可知」、この違いを知らなければ、致命的な結果に向かうと。

この事実は、他の知の道を歩む実践者、すべての人に踏まえておいていただきたい発見なんです。


その前に、今回のスタートは前回お伝えした「小暴君」についてです。

新しい見るものたちは、自らの自尊心を打ち砕くために、小暴君と呼ばれる外部要因を利用する方法を編み出しました。


なぜ 自尊心を打ち砕こうとするのかといえば、自尊心、自己重要性というのは、感情をかき立ててエネルギーを大量に消費するということが、「見ること」を通して観察されたからです。


人間は自分を重要に考えるあまり、尊大になって、自分を軽く見ている、侮辱されたといって怒りの感情を燃やしたり、会社の自分に対する扱いや、なんで自分だけこんな大変な仕事で他の人間はみんな楽をしている、などなど、自尊心、自己重要性というものは人生を通して、不平や不満、怒りなどの感情を搔き立てて、その持っているエネルギーを大量に消費する、それを「見る者たち」は何とか止めたいと思ったわけです。

そして小暴君と呼ばれる外部の要素を、利用する方法が編み出されました。


何世代も前の、メキシコに住む「新しい見る者たち」は、侵略してきたスペイン、そして支配植民地時代を通して、その圧倒的な武力を持ったスペイン人を「小暴君」として、自らの自尊心を打ち砕くために利用しました。

その途方もない権力を持った小暴君とは、ちょっと比較にならないですけれども、現代のこの社会にも「ザコ小暴君」と呼ばれるものが存在しています。

このザコ小暴君を、新しい見る者たちは4つのカテゴリーに分類しました。
それを前回、お伝えしました。


第1は、乱暴と暴力で痛めつけるもの。

第2は、回りくどいやり方で、耐えられないような不安を作り出して、痛めつけるもの。

第3は、悲しみで重圧感を与えるもの。

第4は、戦士を激怒させて、痛めつけるものです。


どうでしょう、このカテゴリーに当てはまる人たち、あなたの周りにも散見されるはずです。


もしあなたが、自らの自尊心、自己重要性が搔き立てる、怒りや不平不満、こういった感情にもう飽き飽きしているのならば、身の回りにいる小暴君、ザコ小暴君を使って、自らの自尊心を、少しずつ小さくする、そういう実践ができるということです。


前回はお伝えできなかった、ドンファンが、ドンファンの人生で出会った強力な小暴君、その小暴君との物語、それをカスタネタに伝え終わって、その後からの二人の会話。

それを今回は聞いていただきます。
それでは、どうぞ。

 


意識への回帰 【小暴君】


「わしはその家に六ヵ月いたんだが、そのあいだに戦士の四つの特質を使ったよ。おかげで、大成功だった。自分を哀れんだことなど一度もなかったし、無力感に泣いたこともなかった。 いつも楽しくて心も平和だった。わしの管理と訓練はいつになく鋭かったし、忍耐とタイミングが完璧な戦士に何をしてくれるかも、この目で確かめられたんだ。それに、あの男が死ねばいいなどとは、一度も思わなかったしな。
わしの師は、とても興味深い説明をしてくれたよ。忍耐の意味は、当然表に出すべきだということを戦士が知っているものを、抑えて隠すことなんだ。だからといって、他人をからかったり昔の恨みをはらすために策略を練るということじゃない。忍耐というのは独立したものなんだ。 戦士が管理と、訓練と、タイミングを身につけているかぎり、忍耐は、与えるべきものを与えるにふさわしい者に与えることを保証するんだよ」


「小暴君が、立ち向かってくる戦士を打ち負かすこともあるのかい?」


「もちろんだ。征服時代の始まりのころには、戦士がハエのように死んでいったこともある。ばたばたと倒れていった時期がな。小暴君は、ほんの気まぐれで人を殺すことだってできるんだ。そういう重圧の下で、見る者たちは畏敬すべきところまでたどりついたんだ」


そして、生き残った者たちは自分の能力を極限まで出しきって、新しい道、方法を見出したのだった。


「新しい見る者たちは、小暴君を利用したんだよ」私を凝視しながら、ドン・ファンはいった。「自尊心を捨てるためだけでなく、この世界から抜け出す高度な方法をうちたてるためにもな。おまえも、わしと意識の習得について話していくうちに、その方法が理解できるようになる」


私は、いまの時代でも、彼がザコと呼んだ小暴君が戦士を打ち負かすことがあるのかどうかを知りたい、といった。


「いつだってその可能性はある。昔ほど悲惨な結果にはならないがな。いまでは、戦士が立ちなおったり、回復して、もう一度立ち向かうというチャンスもいつだってある。だが、この問題には別な側面もあるんだ。ザコ小暴君にやられても致命傷にはならないが、破壊的ではある。比喩的にいえば、死亡率は高いといえる。つまり、ザコ小暴君に打ち負かされる戦士は、挫折感と無価値感に自分をかき消されちまうんだよ。わしにとっては、これは死亡率が高いということなんだ」


「敗北を、どうやって判定するんだい?」


「小暴君の側に加わる者は、みんな打ち負かされているんだ。それに、管理と、訓練と、忍耐を身につけずに怒りのままに行動するのは、やがて打ち負かされる運命にあるということだ」


「戦士が打ち負かされると、そのあとはどうなる?」


「もう一度態勢を立てなおすか、知の探求をあきらめて一生小暴君の側に加わるか、このどっちかだな」

 

さあ、とても重要なことが語られていました。

小暴君というのは「打ち負かされた者」だということです。


前回の動画で、ドンファンはこうも語っていました。

既知のものを過度に操作して、人間は小暴君に変わるんだからなと。


既知とは、既に知るの「既知」ですから、この現実世界、物質世界のことを言っています。

人間社会が作った「価値」、お金や名声名誉、この世にはそういった「価値」以外はないんだとして、そういったものに「負の感情」や「貪欲さ」を絡めて、そうやって生きていく。

そして人間は現実世界、物質世界を過度に操作して、小暴君に変わっていく、ということです。


一般的に若い人たちは 「闇堕ち」、闇に落ちるの「闇堕ち」という言葉を使いますけれども、まさにこのことを言い表しているのではないかなと思います。


私たち、知の道を歩む実践者は、打ち負かされて小暴君に変わってしまうということは何としても避けなければならないですけれども、それと合わせて考えたいのは、小暴君に変わってしまった人間を、すべていなくさせればいいのか、排除すればいいのかといえば、それこそ自尊心、自己重要性の肥大化した考えではないかなと思います。


自らの正義や、論理的な正しさ、正当性というのは、どんな立場からでも打ち立てるこができます。

だから対立する、戦うのではなくて、「調和」それが答えだと思っています。


一方で「新しい見る者たち」は、自らのことを「戦士」と呼んでいます。


戦う「戦士」ということですけれども、自らのことをそう呼ぶのは、自分の次の瞬間には、自分の「死」が、自分を捉えるということを「見ること」を通して知っているので、今この瞬間を、自分の人生で最後の戦い、最高潮の行為にする、その瞬間、瞬間の積み重ねを生きている。

そういう戦士の緊迫した生き方だからこそ「戦士」、新しい見る者たちは自らのことを誇張もなく、「戦士」と呼べるわけなんです。

 

 

「イーグルの放射物」


ドン・ファンはいつも、権力に圧迫された状態でヤキ・インディアンが見つけだすことのできた優位性について語ろうとしていた。そのたびに私は、彼が置かれた悲惨な状態に優位性などあるはずはない、と反論していた。そして、彼自身ヤキ・インディアンでありながら、そうしたひどい不正に対してなぜ反対の態度を示さないのか理解に苦しむ、といった。


ドン・ファンは、私のいうことにじっと耳を傾けていた。そして、彼の反論が始まるだろうと思っていると、ヤキ・インディアンの状態はたしかにひどいとあっさり認めたのだった。しかしドン・ファンは、人間の生活状態が全般的にひどいときに、ヤキのことだけをとりあげても無意味だ、と指摘した。


彼は、こうもいっていた。


「ヤキ・インディアンを哀れむなら、全人類を哀れむんだな。ヤキ・インディアンについていうなら、幸運だとさえいえる。圧迫されているがゆえに、最後には勝利をつかめる者も出てくるんだからな。それにくらべて、彼らを圧迫している小暴君たちに勝利のチャンスはないんだ」


私はすぐに、政治的なスローガンを連発して反論した。彼のいうことがまったく理解できなかったのだ。ドン・ファンはもう一度小暴君の概念を説明しようとしたが、私の頭には入ってこなかった。
それが、いまになってやっと理解できたのだ。


「いや、まだ何もわかっちゃいないさ」ドン・ファンは笑いながらいった。 「明日、ふつうの意識状態に戻ったら、いまわかったことさえ忘れているだろうよ」


私はがっくりしてしまった。彼のいうとおりだということがわかっていたからだ。


「おまえにも、わしの場合と同じことが起こるだろうな。 わしの師のナワール・フリアンも、わしを高められた意識状態にして、いまおまえが小暴君について理解したことをわからせたんだ。そして、日常生活では、理由はわからないが考え方が変わったよ。わしはいつも圧迫されていたから、圧迫している連中を心底恨んでいたんだ。そんなぐあいだから、小暴君との交わりを求めている自分に気がついたときにどれほどびっくりしたか、想像してみてくれ。気が狂ったんじゃないかと思ったよ」


私たちは、昔の崖崩れで半分埋まった岩のあるところを通りかかった。ドン・ファンはそっちへ向かい、平らな岩に腰をおろした。私に、向かい合って坐るように合図をよこした。そして、いきなり意識の熟練について説明しはじめた。


ドン・ファンは、意識については新旧の見る者たちが発見した一連の真実があり、その真実は理解しやすいように特別な順序に並べられている、といった。


彼によると、意識の熟練はそうした一連の真実を内在化することにある。第一の真実とは、われわれは知覚する世界をよく知っているために、われわれの周囲には知覚するとおりの、それ自体でそのものとして存在するものがあると信じているが、実際には、イーグルの放射物という宇宙以外に物質世界などない、というものだ。


それからドン・ファンは、イーグルの放射物について説明するまえに、既知、未知、不可知について話さなければならない、といった。意識に関する大半の真実を発見したのは古い見る者たちだが、それが並べられている順序を考えだしたのは新しい見る者たちだという。彼によると、その順序がなければ真実もほとんど理解不能だという。


順序を考えなかったのは、古い見る者たちが犯した最大の過ちのひとつだった。その過ちの致命的な結果として、彼らは未知と不可知を同じものと考えてしまった。その過ちを正したのが新しい見る者たちなのだ。彼らは未知と不可知のあいだに境界線を引き、未知を、人間からヴェールで隠され、恐ろしい何かによって見えないようにされているが人間の手の届くところにあるもの、と定義した。


未知のものも、あるとき既知のものになるのだ。 一方、不可知は表現しえぬもの、考えられぬもの、理解しえぬものだ。 人間に知られることはけっしてないがたしかに存在し、その広大さゆえに恐ろしいと同時に目をくらませる。


「見る者たちは、その二つをどうやって見分けるんだい?」


「親指の規則というかんたんな規則があるんだ。未知のものを前にすると、人間は冒険好きで大胆になる。わしらに希望と幸福感を与えてくれるのが、未知なるものの特質なんだ。人間が活気づいて陽気になる。未知のものが惹き起こす不安でさえ、満足感をもたらしてくれるんだよ。新しい見る者たちは、未知のものに向かい合うと人間がいちばんいい状態になるということを見たんだ」

 

 

この、未知のものに向かい合うと、人はワクワクして、冒険好きになって、最高の状態になるという「新しい見る者たち」の発見。


この、未知ではなくても、既知、この現実世界で私たちが、例えば旅行に行く時にワクワクしますし、全人未到の未知の冒険や映画なども、私たちはそういった状態で見ることがあります。


その延長線として想像してみれば、この旅行や冒険に満ちた映画、それらを超えたものがこの未知の探求というものにある。

そういうことなんです。


そしてこの重要な発見、新しい見るものたちの決定的な発見として、「未知」と「不可知」、この区別、この区別があるということです。

 

 

さらに、ドン・ファンによると、未知のものだと思っていたものが実は不可知のものだった場合、結果は最悪になるという。見る者たちは消耗し、混乱してしまうのだ。恐ろしいほどの圧迫感が彼らにとり憑く。肉体が正常でなくなり、理性と落ち着きもどこかへ行ってしまう。それというのも、不可知のものには活性化効果がいっさいないからだ。


それは、人間の手の届くものではない。したがって、不用意にであれ慎重にであれ、侵入すべからざるものなのだ。新しい見る者たちは、不可知とわずかでも接触したら法外な代価を支払う覚悟でいなければならないことを、さとったのだった。


新しい見る者たちには、伝統という恐るべき障害物があった。新しいサイクルが始まった当時、膨大な伝統的手順のうちどれが正しくどれがそうでないかをたしかに知っている者はひとりもいなかった。古い見る者たちが誤ったものがあるのは確かなのだが、新しい見る者たちにはどれが誤っているのかわからなかったのだ。彼らは、まえの人びとがしたことにはすべて誤りが含まれているという前提で出発した。古い見る者たちは推測の名人だった。たとえば彼らは、自分の見る能力は身を守る手段になると信じこんでいた。絶対的なものと思っていたのだが、それも、侵略者に打ちのめされ、恐ろしい死に追いやられるまでのことだった。古い見る者たちは、自分は無敵だという確信以外になんら身を守る手段をもっていなかったのだ。


新しい見る者たちは、何が誤っていたかをあれこれ考えて時間をむだにするようなことはしなかった。そのかわりに、不可知なものから区別するために未知のものを分ける作業を始めた。


「未知のものをどうやって分けたんだい、ドン・ファン?」


「管理されたやり方で見ることを利用してだ」


私は、訊きたいのは、未知のものを分けるには具体的にどうするのかということだ、といった。


彼は、未知のものを分けるのは、それをわれわれが知覚できるようにすることだ、と答えた。着実に見ることを使うことによって、新しい見る者たちは、未知のものと既知のものは同じ基盤の上に立っていることを発見した。双方とも、人間の知覚がおよぶところに存在しているからだ。 実際、見る者は、あるとき既知のものを離れて未知なるもののなかへ入っていくことができる。


われわれの知覚能力を超えたところにあるのは、すべて不可知のものだ。そして、不可知と可知の区別は決定的だ。この二つを混同していると、不可知なものに出会った見る者はもっとも危険な状態に置かれる。


「古い見る者たちがこういう状態になったとき、彼らは自分たちの手順がめちゃめちゃに狂ったんだと思った。そんなことは一度もなかったことだから、どんなだったかなどわしらの理解を超えているよ。とにかく彼らは、自分たちの恐ろしい判断の誤りに高い代償を払ったんだ」


「未知と不可知を区別しなければならないことがわかってから、どうなったんだい?」


「新しいサイクルが始まったのさ。その区別が、新旧の境界線なんだ。新しい見る者たちがしてきたことは、ぜんぶその区別から出ているんだよ」


ドン・ファンによると、見ることは、古い見る者たちの世界の破壊と新しい視点の建設との、きわめて重大な要素になっているという。新しい見る者たちが、人間と世界の本質について革命的ともいえる結論を引き出すための事実を発見したのも、見ることを通してだった。新しいサイクルを可能にしたその結論というのが、ドン・ファンが説明している意識についての真実だったのだ。

 

 

偉大な知を持っていたはずの「古い見る者たち」を破滅へと導いた、その過ちを検証して、「新しい見る者たち」は決定的なものを発見した。


それが「未知」と「不可知」の区別ということですけれども、私たち、知の道を歩む実践者として想像してみると、意識を拡大していくなかで、未知のなかへ足を踏み入れていくときに、どれが「未知」で、どれが「不可知」なのか、すべては経験したことがないので、この区別をするというのが、どれほど難しいことなのか、それは本当に驚きです。

 

 

ドン・ファンが、町の中心の広場へ行こうといった。道すがら、私たちは機械について話しはじめた。彼は、機械というのはわれわれの感覚の延長だといった。私は、機械はわれわれには生理学的にできないことをする場合があるから、かならずしもそうとはいえない、と反論した。


「わしらの感覚はなんだってできる」彼はいい張った。


「だけど、機械なら宇宙からやってくる電波をとらえることだってできるけど、人間の感覚では電波なんかとらえられないよ」


「わしの考え方はちがうぞ。人間の感覚は、わしらを取り囲んでいるすべてのものをとらえられると思うがな」


「超音波は? 人間の器官じゃ、超音波は聞こえないよ」


「見る者たちは、人間は自分の能力をほんの少ししか開拓していないという信念をもっているんだ」


しばらくのあいだ、ドン・ファンは次になんといおうか考えこんでいるようだった。やがて、にっこり笑った。


「まえにもいったように、意識についての第一の真実は、そこに広がる世界はわしらが考えているようなものじゃないということだ。わしらは、それは物の世界だと考えているが、本当はそうじゃない」


ドン・ファンは、このセリフの効果を見るようにことばを切った。私は、彼の前提には同意するといった。というのも、すべてはエネルギー場に還元できるからだ。ドン・ファンは、私は真実を直観しているにすぎず、頭でそれを考えても確認したことにはならない、といった。彼には、真実に含まれていることを理解しようとする私の努力以外、私が同意するかしないかなど興味がなかった。


「おまえには、エネルギー場をまのあたりに見ることなどできはしない。ふつうの人間でいるかぎりはな。もしエネルギー場を見ることができれば、おまえは見る者ということになる。そうなったら、意識についての真実も説明ができるだろうよ。わしのいってることがわかるか?」


彼はことばをつづけ、思考を通してたどりついた結論には、人生を変えるほどの影響力はないのだ、といった。それが証拠に、明快な信念をもっているにもかかわらず、それとは正反対の行動をする者が数えきれないほどいる、というわけだ。そして、それを正当化するかのごとく、人間は過ちを犯すものだ、などというのだ。


「第一の真実は、世界は目に映ったとおりであり、しかもそうではない、ということだ。世界は、わしらの知覚が信じこまされてきたほどしっかりもしていなければリアルでもない。 かといって、幻想でもないんだ。世界は、よくいわれてきたような幻想なんかじゃない。リアルでありながら、リアルでないんだよ。この点をしっかり注意してくれ。これはたんに同意するんじゃなく、理解しなければならないんだからな。わしらは知覚する。これは動かせない事実だ。だが、わしらが知覚するものは、同じ種類の事実じゃない。なぜなら、わしらは何を知覚すべきかを学ぶんだからな。
そこにある物はわしらの感覚に作用をおよぼす。これはリアルなことに属す。リアルでないのは、わしらの感覚がわしらに語る、それは何か、ということだ。たとえば、山を例にとってみよう。わしらの感覚はわしらに、それは物だ、と語る。それには大きさ、色、形がある。わしらは、山について、いくつかのカテゴリーさえもっていて、それは厳密無比だ。 これについては、なんのまちがいもない。
欠陥といえば、わしらの感覚はごく表面的な役割を果たしているにすぎないということが頭に浮かんでこないってことだな。わしらの感覚は、知覚するままを知覚する。なぜなら、わしらの意識にそなわっている特質がそうさせているからだ」


私は、また同意しはじめた。が、心底からの同意ではなかった。彼のいうことがよく理解できなかったのだから。むしろ、さしせまった状況に反応しているといった感じだった。ドン・ファンが私を制止した。


「わしが使った”世界”ということばには、わしらを取り囲むあらゆるものが含まれている。むろんもっといいことばもあるが、おまえにはこのほうがわかりやすいだろうからな。見る者は、わしらがそこに物の世界があると考えるのは意識のせいだ、といっている。だが、本当にそこにあるのは、イーグルの放射物なんだよ。それは流動性をもっていてけっして静止せず、しかも変わることなく永遠のものなんだ」


私がイーグルの放射物とは何かを訊こうとすると、ドン・ファンは片手をあげてそれを遮った。彼によると、古い見る者たちが私たちに残したもっとも劇的な遺産は、感覚をもったあらゆるものの存在理由は意識を高めることにある、という発見だという。ドン・ファンは、それを偉大な発見といっていた。


彼が冗談半分の口調で、昔から人間を悩ましてきた”われわれの存在理由は?”の問いに、もっといい答えがあるか、と訊いた。私は即座に防衛態勢に入り、論理的な解答が不可能なのだから、その問いそのものが無意味なのだ、と答えた。 そして、それについて議論をするには、宗教信仰を語り、主題を信仰心の問題に変えなければならなくなる、といった。


「古い見る者たちも、信仰心について語るだけということはなかったぞ。彼らは新しい見る者たちほど実践的ではなかったが、自分たちが何を見ているかを知ろうとする程度には、実践的なところもあったんだ。さっきの問いでおまえに示そうとしたのは、理性の働きだけではわしらの存在理由についての答えは出せないということなんだ。理性の働きが答えを出そうとすると、かならず信念の問題になっちまう。古い見る者たちは別の道を選んで、信仰以外のものも含んだ答えを見つけだしたんだよ」


古い見る者たちは大きな危険を冒し、感覚をもったあらゆるものの源になっている漠然とした力を見た。彼らはそれを、イーグルと呼んだ。というのも、ほんの一瞬かいま見ただけだったが、それが黒と白の巨大なワシに似たものに見えたからだ。


彼らは、意識を授けているのはイーグルだということを見たのだった。イーグルは感覚をもったものを創りだし、生命とともに授けた意識を豊かにするようにした。彼らはまた、感覚をもったものが死ぬときに放棄する豊かな意識を食いつくすのもイーグルだ、ということも見た。


「古い見る者が存在理由は意識を高めることにあるというとき、それは信仰の問題でも推論の問題でもない。彼らは、それを見たんだ。
死の瞬間、感覚をもったものの意識が輝く綿のようにふわふわと浮いて、食べられるべくイーグルの嘴へ漂っていくのを、彼らは見たんだ。古い見る者にとってそれは、感覚をもったものが生きてゆくのはイーグルの糧になる意識を豊かにするためにほかならないということの証拠だったんだ」

 

 

さあ、まずお聞きしていただいたなかで大切なこととして、この世界、私たちの見ているこの現実世界というのは、幻想じゃないということです。
これが、「新しい見る者たち」が「見ること」を通して発見したことです。


幻想ではないと、ドンファンが言っています。
リアルでありながら、リアルではないということです。


これはどういうことかといえば、私たちは「イーグルの放射物」と呼ばれる宇宙の根源的なものを知覚する。その知覚する仕方が、そのイーグルの放射物のほんの一部分、ほんの一側面だけを知覚する、だからそれは決して幻想や仮想世界とかそういったものではないんだけれども、ほんの一部しか見てないということで、リアルであるけれどもリアルではない、幻ではない、という意味だと思っています。


そして「見ること」を通した発見としてもう一つ、我々の存在理由ということが、「意識を高める」そのことが、本来の存在理由だということです。


「古い見る者たち」は危険を冒して、その源である「イーグル」を垣間見ました。それは不可知だからこそ、一瞥するのにもとても危険を伴うわけですけども、それを見たわけです。


そして「古い見る者たち」の表現によれば、私たち意識のあるものは死ぬと、その人生を通して高めた意識を持って、イーグルの糧になるために、そのくちばしへ、ふわふわと漂っていく。そういったおどろおどろしい表現がされていますけれども、このことについては、「新しい見る者たち」は違う見解を持っています。


そのことは、また別の機会があれば、お伝えいたします。

今回も、ありがとうございました。

 

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