知者会議の制作者、陽一です。
今回は自尊心について、お話します。
「自尊心なんか捨てちまえ」、そうドンファンはカスタネダにいいます。
その真意とは、どういうことなのでしょうか。
自尊心とは、私たちが住むこの現代社会において、とても大切なもののように語られています。自分を尊ぶ心、自己肯定感ということで、自尊心を育むように推奨されているのではないでしょうか。
「自尊心なんか捨てちまえ」というドンファンの言葉に出会った十代から、私は人生を通して数十年、自分の人生で検証してきました。
そして今では、自尊心というものは全く無駄なばかりか、自尊心によって人は不幸に陥れられている、そのことは今はっきり分かっています。
今回お伝えする自尊心についてのドンファンの教えというのは、知の道を歩む実践者にとってはもちろんのこと、広く一般の人にとっても重要な考え方、教えになります。
社会では大切だとされているこの自尊心が、実は人を苦しめている原因であるという、この詳細な、本当の仕組みを知ることによって、人はとても生きやすくなるはずです。
この自尊心という訳は、ドンファン・シリーズを主に訳された真崎義博氏の訳になりますけれども、カルロス・カスタネダの原文を当たると「self-importance」と書いてあります。
日本語のカスタネダ・シリーズが出版されたのは1970年代当時ですから、この時代の社会状況を考えると「自尊心」という訳は、非常に通りがいい、人々に流通性があるということで、とてもいい訳だと思います。
ただこの原文の「self-importance」から考えると、ニュアンス的には、うぬぼれや偉ぶった感じ、尊大さ、自己を重要に考えるあまりの中心性、自己重要性、その辺りのニュアンスも含んで聞いていただくと理解しやすいかなと思います。
それでは、カスタネダの著書から引用の音声をお伝えするまえに、第1回目の動画で、この知者会議を立ち上げなければならないと思った理由として、世界が激動の時代に入ったということを挙げましたけれども、もう一つの理由があります。
それはカスタネダの著書についてですが、このドンファンのシリーズをインターネットで検索すると、いまだにたくさん上がってくるので私は安心していたんです。
いまでも若い人たちがこの本に出会える、ということで安心していたのですけれども、いざ自分で予備の本を購入しようとしたときに、買えない、在庫がないということで、これは大変だなということに気づきました。
出版している二見書房や講談社、あるいは新装版を出している太田出版などは、絶版ではないようですけれども、在庫がなくて、重版の予定もないということのようです。
これは何らかの形で、次の世代、若い人たちに伝えていかなければならないなということは思いました。
さらに加えていうなら、ドンファンの教えについて、動画コンテンツなど数は少ないですけれども上がっているなかで、誤解があるかなと思うことがあります。
それはドンファンを、呪術師として紹介していたり、ナーワリズムの文脈のなかで語られていたりします。
前回の動画でもお伝えしたのですけれども、ドンファンの知の体系を「呪術」としてカスタネダに思わせようとしたのは、ドンファンの戦術のひとつで、カスタネダに対してのトラップであったわけです。
本当にはドンファンは、呪術師でもないし、ナーワリズムの一環に位置するものでもなくて、「見るもの」という知の体系の文脈のなかにあります。
私自身の読み込みが浅かったり、思い違いをしていることも多々あると思う のですけれども、数十年、私がドンファンの教えと自分の人生とを照らし合わせながら考察してきた、その考え方、教え、ドンファン教えというものを、お伝えしていきながら、自分自身、この責任をもってお伝えするということで、自分の理解を深めていきたいということも重ねと思っています。
何よりもドンファンやドンヘナロの教えというのは、その自由さと、ユーモア、笑いがあるんですね。
その感じを、感じ取っていただければと思います。
それでは 自尊心の教えについて「意識への回帰」という邦題の本から、引用した音声をお聞きください。
この中では「小暴君」という、新しい概念がでてきます。この認識、この考え方について、知っているか知らないかで、人生が大きく変わります。
それでは、どうぞ。
数ヵ月後まで、ドン・ファンは意識の熟練について話をしなかった。そのとき私たちは、ナワールの集団が住んでいる家にいた。
「散歩に行こう」私の肩に手をのせて、ドン・ファンがいった。「いや、町の広場へ行こう。 あそこなら人も多いし、腰かけて話すこともできる」
話しかけられた私はびっくりした。というのも、二日ばかりその家に滞在しているあいだ、彼は挨拶の一言もかけてはくれなかったからだ。
ドン・ファンと私が家を出ようとすると、ラ・ゴルダがやってきていっしょに連れて行けといった。
いやだとはいわせない、そんな勢いだった。ドン・ファンは厳しい口調で、二人だけで話すことがあると答えた。
「私のことを話すのね」こういうラ・ゴルダの口調としぐさには、疑念といらだちがはっきりと表われていた。
「そのとおりだ」ドン・ファンは冷淡に答え、目も向けずに歩きはじめた。
私たちは一言もことばを交わさずに町の広場へ行った。腰をおろすと、私は、ラ・ゴルダについていったい何を話すのかと訊いた。家を出たときの彼女の恐ろしい表情がまだ気になっていたのだ。
「ラ・ゴルダについて話すことなど、何もありはしない。他の誰についてもな。ああ答えたのは、とほうもない自尊心をかきたてるためだ。うまくいったな。わしらをひどく怒っていたから。わしが思っているとおりのラ・ゴルダなら、いまごろは自信を取り戻して、断わられて恥をかかされたことをひどく怒ってるだろうよ。いまここへ押しかけてきても、わしは驚かんね」
「彼女のことじゃないとすると、何を話すんだい?」
「オアハカで話したことのつづきだ。意識についての説明を理解するためには、最大の努力と意識のレヴェルを往復する積極性が要求される。話をしているあいだは、全神経を集中させて忍耐強くしているんだぞ」
半ば不平をいうように、私は、この二日間彼が口をきいてくれなかったので本当に居心地が悪かった、といった。ドン・ファンは私を見つめ、眉をつりあげた。唇に笑みが浮かんで消えた。彼は、私がラ・ゴルダと同じだといいたいのだ、と思った。
「おまえの自尊心をかきたてていたんだよ」 ドン・ファンは顔をしかめていった。「自尊心は、わしらの最大の敵なんだ。そこのところを考えろ。わしらを弱くするのは、仲間のやることや悪事に侮辱されたと感じることだ。自尊心というやつは、わしらが人生の大半を誰かに侮辱されてすごすことを要求してくる。
新しい見る者たちは、あらゆる努力をして戦士のなかの自尊心を撲滅しなければならない、といっている。わしはその勧めに従ってきたし、おまえには、自尊心をなくせば無敵になれるんだということを教えようと、努力してきたんだ」
話に耳を傾けていると、ドン・ファンの目がふいに輝きはじめた。突然、右の頬に平手打ちを喰わされて仰天した。ドン・ファンがいまにも笑いだしそうなのを見て、どういうことなんだ、と思った。
飛び上がるようにしてベンチから立ち上がった。うしろに、片手をあげたままのラ・ゴルダが立っていた。怒りに顔を赤らめている。
「さあ、あたしのことでいいたいことがあるならいいなさいよ。あたしの前でいったらどうなの!」
ラ・ゴルダはこう叫んだ。一度に感情を爆発させて力が抜けたのだろう、彼女はセメントの上に坐りこんで泣きはじめた。ドン・ファンは、わけのわからぬ大喜びをしている。私は、あまりの怒りに身を固くしてしまった。
ラ・ゴルダは私を睨みつけ、次にドン・ファンへその目を移して、自分を批判する権利などないと弱弱しい声でいった。
ドン・ファンが、からだを二つに折って大笑いした。話もできないほどだった。二、三度私に何かいおうとしたが、とうとうあきらめて立ち上がり、歩き去って行った。 後ろ姿も、笑いで揺れていた。
私はラ・ゴルダを睨みつけ、彼のあとを追おうとした。見下げはてた女だと思った。 その瞬間、私に異様なことが起きた。ドン・ファンが何をそんなに大笑いしたのかを、突然さとったのだ。ラ・ゴルダと私が、恐ろしいほどよく似ていたのだった。私たち二人の自尊心は、とほうもなく大きいものだった。平手打ちを喰わされた驚きと怒りは、ラ・ゴルダの怒りと疑念にそっくりだった。ドン・ファンのいうとおりだった。自尊心という重荷は、ひどくやっかいなしろものなのだ。
元気が戻り、ドン・ ファンを追った。頬を涙が流れ落ちた。彼に追いつき、さとったことを話した。
ドン・ファンの目が、茶目っけと喜びに輝いた。
「ラ・ゴルダを、どうすればいいだろう?」
「放っておけ。気がつくということは、いつだって個人的な問題なんだ」
自尊心というものが、どうして私たちを良くない方向に向かわせるのかというドンファンの教えについては続きを聞いていただきたいと思うのですけれども、私たちが人生の中である出来事に直面するときに、怒りが湧いたり、不安や苛立ちがかき立てられたりするときに、自分の心を内観してみると、どうやってこの自尊心、自分を重要に考える、尊大に考えるという心が、どうやってこういう感情をかき立てているのかということが、よくわかります。
そしてドンファンは、カスタネダやラ・ゴルダが自尊心に振り回されている様子を見て、大笑いするわけですけれども、初めてこれを聞いた人は、ちょっとドンファンのことを失礼なんじゃないかな、というふうに感じるかもしれないんですけれども、このカスタネダ・シリーズのドンファンやドンヘナロの「戦士の気持ち」というものがよく分かってくると、この大笑いの理由がわかるんです。
ドンファンは、カスタネダやラ・ゴルダを見て、かつての自尊心に振り回されていた自分を笑っているんですね。
かつての自尊心に振り回されて、怒りや苛立ちに翻弄されていた自分を、いまは自由になった自分が笑っている。
だから、その笑いは軽快なんですね。
何かを言いかけるんだけど、こみ上げてくる笑いで、言うのは諦めてしまう。
そんな笑い、若い頃あったけれど、もう一度してみたいものです。
それでは続きをどうぞ
ドン・ファンは話題を変え、家へ戻って話のつづきをしろという徴が出ている、といった。坐り心地のいい椅子のある大部屋でもいいし、屋根のある回廊に囲まれた中庭でもいいという。彼が家で教えを話すときは、この二ヵ所は立ち入り禁止にするのだそうだ。
家へ戻った。ドン・ファンがみんなに、ラ・ゴルダのしたことを話して聞かせた。彼女をあざけるときに見せた見る者たちのうれしそうなようすに、ラ・ゴルダはかなり居心地の悪いことになるだろうと思った。
「気むずかしくしたって、自尊心をなくせるわけじゃない」
私がラ・ゴルダが心配だというと、ドン・ファンはこう答えた。
それから、彼がみんなに部屋を出てくれといった。私たちは腰をおろし、ドン・ファンが説明を始めた。
ドン・ファンによると、新旧の見る者は二つのカテゴリーに分けられる。 第一は、みずから進んで自制を働かせ、実際的な目標へ向かって活動の道を切り開いていく者。これは、他の見る者だけでなく、広く人びとに恩恵をもたらす。もうひとつは、自制や実際的な目標のことを考えない者。見る者のあいだでは、後者は自尊心の問題を解決しえなかった者という見方が定着している。
「自尊心というやつは、単純なものでも無邪気なものでもない。それは、わしらのなかのあらゆる良いものの核であると同時に、あらゆる汚いものの核でもあるんだ。汚いほうの自尊心をなくすには、最良の戦略が必要になる。何世代にもわたって、見る者たちはそれをやりとげた者に最高の称賛を与えつづけてきたんだよ」
私は、自尊心をすっかり消してしまうことはときにとても魅力的に感じられるが、どうも理解を超えていると答えた。自尊心を消すことについての彼の説明が曖昧でよくわからない、と苦言を呈した。
「何度もいったように、知の道を歩むためには想像力が豊かでなければいかんのだ。知の道では、わしらが望むほど明瞭なものなど何ひとつないのだからな」
私はどうもすっきりせず、自尊心についての教えはカソリックの教えを思わせる、といった。ずっと罪の邪悪さを教えられてきた私は、そのへんのことには無感覚になっているのだ。
「戦士が自尊心と闘うのは、原則の問題としてではなく戦略の問題としてなんだ。おまえは、わしの話をモラルの問題として理解するというまちがいを犯しているんだよ」
「ぼくには、ドン・ファンがとてもモラルの高い人間に見えるよ」
「わしの完璧さを見ているだけさ」
「自尊心を消すということもそうだけど、完璧さというのもひどく曖昧でよくわからないんだ」
ドン・ファンが息をつまらせるほど笑った。私は、完璧ということを説明してくれといった。
「完璧というのは、エネルギーの適切な使い方以外のなにものでもない。わしのいうことには、モラルの問題など少しも入ってはいないんだぞ。 わしの場合は、エネルギーを節約することで完璧になるんだ。これを理解するには、おまえ自身が充分にエネルギーを節約しなければいかんのだよ」
私たちは、長いこと口をつぐんでいた。ドン・ファンのいったことを、よく考えてみたかった。
ふいに、彼がまた話を始めた。
「戦士は戦略の一覧表をつくるんだ。自分がすることを、すべてリスト・アップするんだよ。それから、自分のエネルギーを使うことに関して、ひと息つくためにはどの項目が変更可能かを考えるんだ」
私は、戦士のリストにはこの世のあらゆるものが含まれていなければならないはずだ、といった。
それに対してドン・ファンは、彼のいう一覧表に含まれているのは、私たちの生存と幸福にとって本質的なものとはいえない行動のパターンだけなのだ、と根気強く説明した。
話しつづけているうちに、私は勢いをなくしていった。そして、話すことのむなしさをさとってロをつぐんだ。
ドン・ファンが、戦士の戦略の一覧表のなかで自尊心は大量のエネルギーを消費するものなので、彼らはそれをなくそうと努力しているのだ、といった。
「戦士がまず最初に気にかけることのひとつは、未知のものに向かい合うためにそのエネルギーを解き放つことだ。そのエネルギーの流れる道を切り開きなおす行動が、完璧さなんだよ」
ドン・ファンによれば、そのもっとも効果的な戦略は征服された見る者、忍び寄りの名人たちによってなしとげられたのだという。それは他と影響しあう六つの要素から成っている。そのうちの五つは戦士としての特質と呼ばれているもので、管理(コントロール)、訓練、忍耐、タイミング、意志だ。
これらは、自尊心をなくそうと闘っている戦士の世界に関連している。
自尊心というのは、良いものと、悪いものの核からなっているということで、確かに、自尊心、自己重要性というのは、良いもの、自分の決断を信じたり、自分の行動を信じるという良いものと、自分を重要に尊大に考えるあまり、他人の自分に対する扱いが侮辱しているだとか、軽んじられたというふうに怒りを燃やしたり、そういったことでエネルギーをとても無駄遣いする、そういった悪い核からなっている。
ドンファンの「自尊心を捨てちまえ」というのは、モラルや、精神性の高さとかそういったものとはまるで関係なくて、とてもシンプルに「エネルギーの適切な使い方」ということなんです。
自尊心、自己重要性を肥大化させてしまった私たち現代人は、人生を通して自尊心を刺激されながら、自分がバカにされた、屈辱されたと言って感情を燃やしたてる。そういったことにエネルギーを使い果たしてしまう、この教え、この考えはどうでしょう。
もし私たちが自尊心、自己重要性の悪い塊の部分、これを捨てることができたら。
翻って社会を見てみれば、対立や批判ばかりが溢れています。
この社会にあふれかえる、批判や対立のどんなケースを見ても、この自尊心、自己重要性の悪い核というのが見て取れます。
これに己の欲望、それに生存本能とが絡み合って、批判や対立が出来上がっています。
もしドンファンのいう、この自尊心、自己重要性の悪い核を捨てることができたら、この「枠組み」から抜け出すことができるんですね。
対立や批判の枠組みから「自由になる」ということです。
新しい時代が始まるのであれば、人は自尊心を捨てて、その欲望を捨てることでしか、新しい時代は始まらない。そう私は思っています。
第六の要素は、おそらくもっとも重要なもので、外の世界に関連し、小暴君と呼ばれている。
ドン・ファンは、私がちゃんと理解したかどうかを問うように、じっと私を見つめた。
「何がなんだかさっぱりわからないよ。いつも、ラ・ゴルダはぼくの小暴君だというけど、小暴君というのはいったい何なんだい?」
「他の戦士を苦しめる者さ。他の戦士に対する生死の力をもっているか、他の戦士を気も狂わんばかりにいらだたせる、そういう者だ」
こういいながら、ドン・ファンは大きな笑みを浮かべていた。彼によると、新しい見る者たちは、小暴君に関して独自の分類を推し進めた。そして、その概念が彼らの見つけたもののなかでももっとも重大で、重みをもっているにもかかわらず、新しい見る者たちにはユーモアのセンスがそなわっていた。彼らの分類のひとつひとつが悪意のユーモアに染まっているのは、一覧表をつくり、やっかいな分類をする人間の意識の衝動に対抗できるのが、ユーモアだけだからなのだ。
新しい見る者たちは、その実践のとおり、自分たちの分類に宇宙で唯一の支配者たる根源的なエネルギー源を冠し、暴君と呼んだ。そして、そのカテゴリーの下に、さまざまな専制君主が配される。
あらゆるものの根源と比較して、もっとも恐ろしく暴君的な者は道化である。したがって、彼らは小暴君(pinches tiranos) と分類される。
ドン・ファンによると、その下に二つの小区分がある。ひとつは、他を苦しめ、不幸を与えはするが死にいたらしめることはない小暴君で、小さな小暴君 (pinches tiranitos)と呼ばれる。もうひとつは、終始他をいらだたせるだけの小暴君で、ザコ小暴君 (repinches tiranitos)、あるいはケシッブ小暴君(pinches tiranitos chiquititos) と呼ばれる。
私には、この分類がなんともこっけいだった。そのスペイン語はドン・ファンの即興的な造語であるにちがいないと思い、訊いてみた。
「とんでもない」愉快そうな顔で、ドン・ファンは答えた。「新しい見る者たちは、分類については相当すぐれていたんだ。ヘナロは、まちがいなく最高のひとりだぞ。 彼を注意深く観察していれば、新しい見る者たちが自分の分類をどう感じているかわかるはずだ」
私がからかっているのかと訊くと、彼は大声で笑った。
「そんなことをしようとは夢にも思っていないさ」にこにこしながら彼はいった。「ヘナロならやりかねんが、わしはしないね。おまえが分類についてどう感じているかわかっているからなおさらだ。要するに、新しい見る者たちはひどく無礼だ、ということさ」
彼は、小さな小暴君はさらに四つのカテゴリーに分けられる、といい加えた。第一は、乱暴と暴力で痛めつける者。第二は、まわりくどいやり方で耐えられないような不安をつくりだして痛めつける者。第三は、悲しみで重圧感を与える者。第四は、戦士を激怒させて痛めつける者。
「ラ・ゴルダは、自分だけのカテゴリーに入っているんだ。いわば実践的小さな小暴君だな。おまえをとことんうんざりさせて激怒させるんだ。平手打ちさえ喰わせる。そうやって、おまえに超然とすることを教えているんだよ」
「そんなバカな!」
「おまえはまだ、新しい見る者たちの戦略のひとつひとつを全体的に見るということをしていないんだ。一度それができてしまえば、小暴君を使う仕掛けがどれほど効果的で巧妙なものかがわかるはずだ。はっきりいうが、その戦略は自尊心を追い払うだけでなく、知の道で唯一重要なのはその完璧さだけなんだということをさとらせてくれるんだよ」
さらに彼は、新しい見る者たちが考えているのは、小暴君が山の頂上になり、戦士の特質がその頂上で出会う登山者になるような、決定的な手法なのだ、といった。
「ふだんは、四つの特質だけが使われる。五番目の意志は、戦士が、いわば銃殺隊と向き合うような最終的な局面のためにとっておくのさ」
「なぜそうするんだい?」
「意志は別な領域、つまり未知に属しているからだ。他の四つは既知、小暴君のいる領域に属しているんだ。実際、既知のものを過度に操作して、人間は小暴君に変わるんだからな」
ドン・ファンの説明では、戦士がもっている五つの特質の相互作用は、完璧な戦士であると同時に、意志を自由に駆使できる見る者だけがなしうる。そうした相互作用は、日常的な人間の活動では不可能な、最高度な戦略的行為なのだ。
「小暴君を相手にするには、四つの特質だけで充分だ。むろん、小暴君を見つけたらの話だがな。わしがいったように、小暴君はわしらには管理できない外的な要素、それもいちばん重要な要素だ。わしの師はいつも、小暴君にめぐり会う戦士は幸運だといっていたよ。自分の道を歩いていて出会えなければ、こっちから探しに行かねばならんのだからな」
征服された見る者たちがなしえたことでもっとも偉大なもののひとつに、ドン・ファンいうところの三段階進行の確立がある、彼はこう説明した。人間の本性を理解することによって、彼らは議論の余地のない結論に達することができた。それは、小暴君と向かい合ったときに自分というものを守ることができれば、未知のものにも無事に向き合えるし、不可知の存在にさえ耐えることができるのだ。
「ふつうの人間は、それは順序が逆だと思うだろう」彼は説明をつづけた。「つまり、未知のものに向き合ったときに自分が守れる見る者が、小暴君にも向かい合えると考えるだろうということだ。だが、そうじゃないんだ。古代の優秀な見る者を破滅させたのは、この逆の考え方なんだ。いまのわしらには、よくわかっている。力をもった並はずれた人間を相手にする難行くらい、戦士の精神を強くするものはないということがな。そういう状態でこそ、戦士は不可知のものの重圧に耐えるだけの平静さと落ち着きが得られるんだ」
私は、大声で異を唱えた。私の意見では、暴君というのは相手を無力化するか、自分と同じように狂暴にすることしかできないのだ。私は、そうした犠牲者への肉体的、心理的責苦の効果については数えきれないほどの研究がなされている、と指摘した。
「いまおまえがいったことばのなかに、ちがいがちゃんと表われているよ。おまえがいったのは犠牲者だ、戦士じゃない。わしも、以前おまえと同じことを感じたことがあったよ。これから、どうして考え方が変わったかを話してやろう。だがそのまえに、征服者の話へちょっと戻ろう。当時の見る者にとって、あれほど好都合な舞台はなかった。スペイン人は、見る者の技量を限界まで試した小暴君だったんだ。征服者たちを相手にした見る者には、以後、立ち向かえないものなどなにもなかった。彼らは、本当に幸運だったよ。当時は、どこにでも小暴君がいたんだからな。
小暴君に囲まれたすばらしい時代のあとには、すさまじい変化がつづいた。以後、小暴君たちがあれだけの力をもつことはなかった。彼らの権力が無限だったのは、その時代だけだったんだ。無限の特権をもった小暴君が、最高の見る者をつくる完璧な材料だったというわけさ。
わしらの時代の見る者は、残念ながら、それだけの材料を見つけるためには極端なところまで行かなければならなくなっちまった。ほとんどの場合は、ザコ小暴君で我慢しなければならないのさ」
「あんた自身は小暴君を見つけたのかい、ドン・ファン?」
「わしは幸運だったよ。大きなやつを見つけたんだ。だが、そのころはおまえと同じように感じていた。自分が幸運だなどとは思えなかったよ」
ドン・ファンは、試練は師に出会う数週間まえに始まった、といった。そのときは、二十歳そこそこの年齢だったそうだ。彼は、砂糖工場で働いていた。相当な力の持ち主で、肉体労働の仕事なら職を得るのは容易だったという。
侵略された当時のメキシコというのは、それは想像を絶する世界だったと思います。
圧倒的な武力を持って 気まぐれで人を殺すような者たちが、自らの土地に踏み入ってきた時、それらのものを小暴君と呼んで、自らの自尊心を打ち砕くために利用した。
そういった戦士が本当に存在した、ということなんですね。
私たちの社会では、パワーハラスメントやイジメが問題になります。
戦士というのは、これらを利用するということなんです。
もちろん誰にでもできるものではないし、戦士の気持ちを受け入れなければできないことだけれど、被害者になる以外の、もう一つの道があるということです。
過酷な状況で、本当に立ち上がれなくなってしまう前に、必ず状況を変えなければならないですけれども、被害者になる以外の道がある、ということなんです。
ドンファンは言います。
小暴君を扱うのに、戦士は4つの特質を使います。
それは管理、訓練、忍耐、タイミングです。
この4つの特質の「管理」というのは、自分を律してコントロールする。
そして「訓練」。この状況、相手をよく観察して、ひたすら訓練、戦術を考える、 戦略を考える。
そして「忍耐」。状況というのはなかなか変わらないので、その好機が来るまで、ずっと耐え忍ぶという「忍耐」。これは戦士の特質として忍耐、これが試され、鍛えられます。
そして最後の特質である「タイミング」。これは相手をよく観察して、弱点を把握し、その状況を突破する戦略を立てて、それを実行する。
最高の「タイミング」を待つということです。
このタイミングを外してしまうと、最高の戦略、最高の戦術でも、その効果を発揮できないんです。
ドンファンが出会った小暴君は、とても強力なものでした。
それは想像を絶するような強力な権力を持った暴君で、その終わりのないような日々、ドンファンの物語はまたのちほど、機会があればお伝えします。
それでは、ありがとうございました。